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 インドシナとは
 
 
フランス領インドシナ(フランス語: Indochine française(アンドシヌ・フランセーズ), は、1887年から1954年までフランスの
支配下にあったインドシナ半島(インドシナ)東部地域で、
現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域に相当します。
なお、地理的な意味でのインドシナについてはインドシナ半島のことをいいます。

 インドシナの歴史

◎起原
フランス領インドシナ植民地の起源はナポレオン3世がフランス宣教師団の保護を目的に1858年に遠征軍を派遣したのに
始まります。
遠征軍はまずベトナム中部のダナン(ツーラン)に上陸、ついでサイゴンに転じ、コーチシナを植民地とし、海軍植民地省の
管轄下にコーチシナ総督を設置しました。
1863年、ベトナムとタイに侵略されつつあったカンボジアがフランスに援助を求め、フランスの保護国になりました。
1882年にフランス軍がトンキン地方を占領すると、ベトナムの宗主国である清国の介入を招き、
清仏戦争 (1884年 - 1885年) が勃発。フランス軍はトンキン各地で清朝軍と戦う一方、海軍が中国沿岸部を攻撃したため、
清国は1885年の天津条約によってベトナムに対する宗主権を放棄しました。
1886年フエに阮朝宮廷を置いたままアンナン、トンキンはフランスの保護国とされ、フランス外務省の管轄下でそれぞれ
理事官が駐在しました。

◎支配
1887年10月、海軍植民地省の一元的管轄下にアンナン・トンキン保護国とコーチシナ植民地およびカンボジア保護国を
統括するインドシナ総督が設置され、インドシナ連邦(フランス領インドシナ)が成立しました。
南部のコーチシナはフランスの直轄地であり、フエの阮朝宮廷が中部のアンナンの行政を支配し、阮朝から任命された
ハノイ総督が北部のトンキンの行政を支配する形でしたが、いずれも形式に過ぎず、実際にはトンキン・アンナンに配置
されたフランス人理事官が実質的にコントロールしていました。名目的な保護国の形を残した巧妙な支配といえましょう。
インドシナにおけるフランスの植民地支配を完成させたのは、1897年から1902年にかけてインドシナ総督に就任した
大物政治家ポール・ドゥメールです。ドゥメールはインドシナ連邦の財政と行政機構を整備し、強権的な手段によって
同化政策を推進しました。その後、ポール・ボー総督やアルベール・サロー総督らはフランスの文明的使命を正面に掲げ、
教育の普及や富の増大、医療救済制度の充実、現地人の公務員採用などを通じて「精神の平定化」をめざす協同政策に
転換しました。

◎日本の北部進駐
1940年6月ナチス・ドイツのフランス侵攻によってパリが陥落しヴィシー政権がドイツと休戦すると、大日本帝国政府は
同年7月雲南鉄道による中華民国国軍への援助補給封鎖をフランスに要求して、西原少将を長とする軍事監視団を
ハノイに派遣しました。また同年8月にはインドシナにおけるフランスの主権擁護を条件に、25,000の日本軍を「北部仏印」
(トンキン)に進駐させました(仏印進駐)。
大部分のフランス軍部隊は日本軍の進駐を平和裏に受け入れたが、中華民国との国境のランソンに駐屯していたフランス
部隊は日本軍と交戦しつつ、中華民国国軍支配下の雲南省に退却しました。

◎タイとの国境紛争
タイ王国はフランス保護領のラオス王国の主権やカンボジア王国のバッタンバン・シエムリアプ両州の返還を以前から
フランスに求めていましたが、日本軍がラオス・カンボジアに進駐すれば、これらの要求を実現することが不可能になると
見て、1940年11月末からラオス・カンボジアに対する攻撃を加え始めました。
1941年1月にはシャム湾でもタイ海軍とフランス軽巡洋艦「ラモット・ピケ」が交戦し、タイ側の旗艦トンブリ級海防戦艦
「トンブリ」が撃沈される事件が発生しました。これを見た日本は東京で泰仏(タイ・フランス)両国の間に立って居中調停
を行い、フランスにラオスのメコン右岸、チャンパサク地方、カンボジアのバッタンバン・シエムリアプ両州をタイに
割譲させました。
後にタイは日泰攻守同盟条約を結んで日本の同盟国となりました。

◎日本の南部仏印進駐
さらに1941年7月、日本は東南アジア侵攻時の基地とするために「南部仏印進駐」を求めた。これに対してフランスのヴィシー政権は、インドシナにおけるフランスの主権を日本が認めるのを条件に承認した。こうしてドクー総督のインドシナ植民地政府は大東亜戦争(太平洋戦争)の大部分の期間、日本軍と共存することなった。
戦争中、インドシナ植民地政府は日本にホンゲイ炭やゴム、米などを供給し、日仏協力が実現しました。

◎仏印処理とインドシナ独立
しかし、1944年にパリが解放され、ヴィシー政権が崩壊すると、ド・ゴール派からの働きかけも活発化し、
インドシナ植民地政府の立場は微妙なものとなりました。このため、日本軍は1945年3月9日『明号作戦』を発動して
フランス植民地政府を武力によって解体し(仏印処理)、フエの宮廷にいたバオ・ダイ(保大)帝に
ベトナム帝国を独立させました。
また、3月12日にはカンボジアのシアヌーク国王にもカンボジア王国の独立を、4月8日にはルアンパバーン王国の
シーサワーンウォン王にもラオス王国の独立を、それぞれ宣言させました。

◎終戦
1945年8月15日に日本政府がポツダム宣言を受諾したため、ベトナムでは中国国民党軍が北ベトナムに、英軍が南ベトナム
に進駐して、日本軍の降伏を受け入れました。
ベトナム八月革命によってハノイを占拠したベトミンのホー・チ・ミンは、バオ・ダイ帝の退位を説得し、9月2日に大統領として
ベトナム民主共和国の独立を宣言しました。ラオスは8月に臨時政府を樹立し、10月に独立を宣言しました。

◎独立戦争
しかし、フランスはこれらインドシナ諸国の独立を認めず、1946年に植民地再建のためインドシナに戻ってきたフランス軍は、
ベトミンとの間で第一次インドシナ戦争を開始しました。当初ハノイなど都市部を占拠していたベトミン軍は農村部に後退して
ゲリラ戦を余儀なくされました。
しかし、1949年に中華人民共和国が成立、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、ソ連・中国はベトミン軍に対する軍事援助を
活発化させ、強化されたベトミン軍は1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍を敗北させました。
このため、フランスはジュネーヴ協定によってインドシナ3国の独立を承認し、フランスのインドシナ連邦は正式に解体しました。なお、広州湾租借地(現・広東省湛江)は1945年8月、仏印からの中国軍撤収の見返りとして
中国へ正式に返還されています。
                                      『ウィキペディア(Wikipedia)』抜粋

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